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占い師開業者向けソフト 西洋・インド・七政占星学プロ版  マヤ占星術バンドルパック

■七政四余占星学の源流 

 西洋占星学の本格的な研究者であっても、中国占術の相当な研究者であっても、七政四余占星学についてその全貌を知っている人はほとんどいない。中国式の占星学だということくらいはわかっていても、その誕生経過や歴史的変遷、本来の占断方法などについては今日まで謎のままにされてきたと言って良い。

その謎を解き明かし、単に七政四余占星学の真実だけでなく、中国命理占術全般に対してこれまで語られることのなかった驚くべき真実をソフト化してあります。これから述べていくことが何故今まで解き明かされなかったのかといえば、西洋占星学の歴史的変遷に対する知識、中国命理占術の成立過程全般に対する知識、インド占星学に対する知識、古代中国の歴史的背景に対する知識、そしてなによりも中国的発想力に対する理解力がなければ見い出し得ないことばかりだからである。

まず七政四余の「七政」とは何かといえば、<国家を政する七つの元となるもの>といった意味合いの言葉で、肉眼観察可能な古代の七惑星を意味した。それは古代中国において七政四余という占星学が天下国家の動向と不可分であった証明でもある。いや中国ばかりではなくバビロニアやイスラム世界でも占星学は為政者の導き手といえた。中国では「七政」以外に「七曜」という呼び方もあった。

それでは七政四余の「四余」のほうは何かといえば、これは<四つの余り>ということで副次的な惑星といえた。厳密には四つとも惑星とは言えないが擬似惑星のような扱いを受けていた。ただし、近代から現代にかけては「四余」が省かれてしまうことも多く「七政星学」として扱かう占星図も少なくない。

七政四余占星学が純粋に中国本土で生まれた占星学かといえばそうとはいえない。バビロニアからギリシャ、ペルシャをへてインドへと伝わり、当時の仏教的色彩を施しながら中国へと迎え入れられた西洋占星学の中国化であり、発展形であることは間違いがない。 

そこでまず歴史的確認が取れているバビロニア占星学から訪ねてみることにしよう。

西洋占星学の発祥地については今もって正確なところはわからない。シュメールだという説があり、エジプトだという説があり混乱しているが、個人のホロスコープとして実在しているのはバビロニアにおける紀元前410年に出生した人物のものからである。ギリシャ文明圏では紀元前62年が最初の記録である。

占星学の著述としては、1世紀のドロテオスやマニリウス、2世紀のプトレマイオスやウァレンスの著述が知られているが、それまでにギリシャ周辺地域で行われてきた占星学と自らの説との集大成として著されたプトレマイオスの『テトラビブロス(四書)』が、一般的には<その後の西洋占星学の原点>とみなされてきている。天文学者であるプトレマイオスの著述はなかなかに秩序だっていて、その当時としては科学的な内容でもある。『テトラビブロス(四書)』より以前に書かれたマニリウスの『アストロノミカ(天文学)』などに比べテキストとしても完成されている。

『テトラビブロス(四書)』はラテン語読みであって、ギリシャ語では『アポテレスマティカ』、アラビア語では『キターブ・ル・アルバア』などと呼ばれたらしいが、いずれも「四書」とか「四巻書」とか「四部書」といった意味合いで、もしこの書がそのまま中国語で翻訳化された場合『四門経』と称された可能性がある。

唐代の中国で実際に著された書物の中に『聿斯四門経』一巻がある。<聿斯経>がギリシャ系占星術を指していることは中国史家の誰もが認めていることであり、聿斯経関連の書物も少なくはない。たとえば『都利聿斯経』、『聿斯歌』、『聿斯経訣』、『聿斯隠経』、『聿斯妙利要旨』、『徐氏続聿斯歌』などである。これらはいずれもギリシャ系占星術であるが、それ以前に輸入された西洋式占星術が無かったのかと言えばそうではない。

中国における最初の輸入品としての占星学は、インドにおいて仏教的色彩を施された「大蔵経」としてのインド占星学であった。竺律炎と支謙が著した『摩登伽経』や竺法護が著した『舎頭諫太子二十八宿経』(『虎耳経』とも称される)を、ほとんど最初の書物と見てもよい。これら二書の原典になっていると思われるのは3世紀にインドで著された『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』という書物で、仏教文学に占星術とインド古来の前兆占いを散りばめた内容となっている。

仏教的色彩のインド占星学として最も強い影響力を発揮したのは、正式名称を『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』と言う長いタイトルの『宿曜経』で、不空が「翻出」し、史瑶が「筆受」し、楊景風が「修注」したものとされている。史瑶の初訳本は759年に出ているが、西洋占星学であれば必ず登場する<「おひつじ座」(白羊宮)>から<「うお座」(双魚宮)>までの12星座宮については、一応語られてはいるが重視されず、個人的出生天体図(ホロスコープ)に対する作図法や判断方法も示されてはいない。インドの宿曜経占星学における中心的テーマは、個々の出生年月日においての<月の27星宿(楊景風は28星宿)>に基づく判断方法のようであった。『宿曜経』はその後、日本の弘法大師空海によってわが国にも伝えられている。

それでは『宿曜経』の方の原典は何なのかというと、インド化されたギリシャ系占星術の最初の書物とされている『ヤヴァナ・ジャータカ』や古代インドの占い百科全書である『ブリハット・サンヒター』に、「翻出」者である不空自身の占星学的仏教(密教)思想を加えた書物であろうと私は推定している。

インド以外では、チベットのスン・パ・ケンポが著した『占星術宝蔵略集清浄鏡』や『占星術清浄鏡要集』、ダルマ・シーラの著した『秘密密伝占星要門・太陽明』などのラマ密教の占星術書があるが、七政四余の成立に大きな役割を果たしたとは思われない。

個人の出生天体図の作成とその判断方法においては、先に示したギリシャ系占星術である「聿斯経」関連書籍に負うところが大きいと思われるが、それと共に金倶叱が著した『七曜攘災決』、一行が著した『梵天火羅九曜』、瞿曇悉達が著した『九執暦』、曹士薦が著した『符天暦』などが大きな役割を果たしていたであろうことは、日本の平安時代に活躍した第119代目宿曜師(ギリシャ系占星術師)などが遺した「宿曜勘文」の占断記録内容などからも明らかといえよう。  

中国化されたインド・ギリシャ占星学>としての七政四余占星学の登場は、張果老が著した『果老星宗』をほとんど最初の書物とみてもよい。もしかしたら先に示した『都利聿斯経』や『聿斯四門経』にも中国化した部分が含まれているのかもしれないが、これらは原書が失われているので確かめようがない。『果老星宗』は張果老が原著者ではあるが、現代にまで伝えられているのは鄭希誠の撰による著述としてである。その『果老星宗』のなかみを見ると<自説としての七政四余>を述べているばかりではなく「聿斯経」からの抜粋も多い。したがって張果老だけで七政四余としての占星学を創始したとみる事はできない。

張果老の原著としては『果老星宗』が有名であるが、撰者不明ながらも張果老の説が収められている七政四余占星学の原書としては『星命溯源』五巻もある。

あまり知られていない『星命溯源』という占星学書五巻の構成は、第一巻に張果老の学説が掲げられ、第二巻には李燈の学説問答、そして第三巻から第五巻までは鄭希誠による註説が加えられるような形式をとっている。つまり張果老の影には常に鄭希誠がいる。

これまで述べてきた書物以外で、七政四余占星学の構築にいくぶんでも影響を与えたと思われるものとしては、耶律純が撰した『星命総括』、文言のみの『耶律真経』、『壁奥経』、『望斗経』、『琴堂歩天警句』、『演禽通纂』などの書籍がある。これらの内、耶律純が撰した『星命総括』を除くと、他はいずれも著者、撰者が判然とせず『演禽通纂』以外は出生天体図の起例や作図法さえも記されてはいない。ただ『壁奥経』という書物には「霊合120格」、『琴堂歩天警句』という書物には「富貴69格」とそれぞれに「」の存在が示されている。

実はこの「格」というものの存在が、七政四余占星学と他の中国命理占術とを結びつける重要な秘密の鍵の一つなのだ。事実、鄭希誠の撰による『果老星宗』でも「巻三」において<星格・定格合わせて184の格>が語られている。中国における他の命理占術、例えば「四柱(子平)推命」や「紫微斗数」でも初期の占断方法では「格」または「格局」というものが重視されていた。いや、中国の占術ばかりではなく、インドの占星学でも「格」に相当するものは存在していた。

「ヨーガ」と呼ばれるものがそれであるが、「ダーナ(富をもたらす)・ヨーガ」「ラージャ(王者になれる)・ヨーガ」「アリシュタ(悲惨をまねく)・ヨーガ」など一定の条件を満たすことによって成立する多数の「ヨーガ」が継承され現在でも存在している。このような見方や占断方法が先行していたのは、ギリシャ・ペルシャ系占星学自体がそうであったようにおそらくはインドの方であった。いや、もしかしたらインド以前から既にそれは存在していたのかもしれない。インドで「ヨーガ」と名付けられていたそれを中国化する過程で「格」、または「格局」という名称を用いたものと推定される。

そして先にも述べたように、このような見方や占断方法は何も七政四余占星学だけにとどまるものではない。初期の四柱(子平)推命や紫微斗数でも同様に見習われて採用され、「格」または「格局」として中国命理占術に欠かすことのできない存在として研究対象にされてきたのであった。歴史的推移から考えると、四柱(子平)推命や紫微斗数のほうに「格」や「格局」が先にあって、七政四余占星学が後からそれを追従して採り入れたものとはどうしても考えられないからである。

このような一見中国で生まれたかに見える占断技法が、実は中国以前から存在しているというのは決して珍しいことではない。例えば、七政四余占星学で用いる「身宮」などにしても中国だけの特産品ではないのだ。このような事実は中国命理占術に相当精通している方であっても知り得なかったに違いない。

ちなみに「身宮」というのは、西洋占星学でいう12ハウス(12宮)とは別の<もうひとつのハウス(宮)>で、12ハウス(12宮)に重なるような形で出生天体図内に位置している。だいたいあなたが西洋占星学のみの研究家なら、「身宮」というもの自体理解に苦しむ存在かもしれない。ただあなたが紫微斗数の研究家なら、「身宮」そのものについては知っている、と思うことだろう。「格」と同じように紫微斗数占術では採用されているからだ。(紫微斗数の研究家の中には、「身宮」は確かに紫微斗数で採用されているが、「格」は紫微斗数では採用していないと勘違いしている方もいるかもしれない。それはあなたが近年の紫微斗数しか知らないからである。)

『紫微闡微録』という中国明代の書物には、「命宮」は太陽暦に基づく宮であり、「身宮」は太陰暦に基づく宮であり、<それは命理学に共通した認識である>と云った風なことが記されている。そして、その<共通した認識>を古典的なインド占星学は持っていた。

古典的なインド占星学においては、月のある宮は「誕生宮」または「本命宮」と呼ばれ、12星座宮の上昇点(アセンダント)がある「上昇宮(第一ハウス)」=「命宮」と共に重要視されていた。この「誕生宮」または「本命宮」を起宮として運勢判断を行う方法もある。インドにおいては、欧米の西洋占星学のように太陽のある宮を「誕生宮」とは呼ばないのだ。

インドで「ヨーガ」と呼ばれていたものが「格」または「格局」として中国化されたように、インドで「誕生宮(ジャンマ・ラーシ)」と呼ばれていたものが「身宮」として中国化された可能性は大きい。実際、現代の「身宮」の表出方法とは異なるのだが、『果老星宗』の原書では月のある宮を「身宮」と記述しているからだ。

月のある宮の話が出たついでに記しておくと、月が通る白道星宿をインドでは27宿、中国では28宿として最初から捉えていた、と認識している人が多いと思われるが、これは厳密に言うと正しくない。インドから中国へと占星学などの学術が伝播していたころのインドでは27宿と28宿の星宿説が両方とも存在していたのだ。より注目すべきは、イスラム圏のアラビア占星学においては、27宿の方ではなくて28宿の方が採用されていたことである。ちなみにチベットのラマ密教占星術では27宿と28宿の両方を同一書籍の中でも使い分けているように見える。

したがって、月の<28星宿>を中国だけの特産品と見ることはできない。ただし、中国では歴史的史料からいって紀元前443年にはすでに28星宿を赤道星座(インドやアラビアやチベットは黄道星座の可能性もある)として図像化している。  

以下 略 ・・・ 製品版のマニュアルには、詳細解説してあります。

 

■占断技法について

 天文暦は、西洋占星学と同じものを使います。しかし、星座と星という関係で、占うことはあり得ません。西洋占星学も、実は、星座と星という関係で占っても当たる精度は高くないことが知られています。星と星の位置関係つまり、アスペクトを重視しているのです。言葉が○○度というものではなく、合とか刑といった言葉で表現されているだけです。もう一つの方法は、12の宮に区切って、その宮と星との関係で占っていく方法です。これは、紫薇斗数推命に良く似ています。というより、この方法が発展して、紫薇斗数推命になったと言った方が良いでしょう。

 

 

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最終更新日: 2003/03/14 Fortune Soft Inc.,Ltd