神武とは、和で納得させる言葉。反対が、凶武であり、武力による支配である。
日本書紀には、「勾玉」とは、積慶と記載されている。積慶とは、生活保障のことである。
日本書紀には、「鏡」とは、重輝と記載されている。重輝とは、生き甲斐・精神文化のことである。
生き甲斐は、高い目標を己に課し、これをやりぬく決意と行動力から生まれる。
日本書紀には、「剣」とは、養正(ようじょう)と記載されている。養正とは、正しきを養う破邪顕正のことである。
国造りの原則は、天皇は、国民に生活保証をし、生き甲斐をあたえ、正しい道を教えるということである。
それ大人(ひじり)の制(のり)を立つる 義(ことわり)かならず時に従う。
いやしくも、民に利あらば、なんぞ、聖造(ひじりのわざ)にたがわむ。
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ものの解釈は時代とともにかわる。国民が幸せになるのであれば、
過去のしきたりにとらわれず改革していけば良い。
今のリーダー達にも、求められることである。
人とは何なのか? 自分勝手な欲求を追求してもヨロコビを得られない生き物であることを教えないといけない。
これは、人生経験豊富な、年配の女性がいい。できれば、水商売を長年やってきたような人を講師に迎えれば良い。
秩序やルールをマニュアルで教えても意味はない。
自分の任務を明確に知ることで、していいことと、悪いことは自分で考えられるようになるからである。
企業人としての人格とは何なのか?責任をとれる人が人格者。責任をもたない人は非人格者。
どれだけ多くの人に愛情を注いだか?が人格の深さになる。
常に革新しろという号令だけでは何をしてよいのか分からない。
革新とは、不安の処理、不満の解決、退屈の処理 であることを具体的にしないといけない。
幹部とは、偉い人という概念をもたれるようでは組織は死ぬ。
幹部とは、部下を使って仕事をするが、結果に責任をもち、部下とともに泣くことができる人である。
善と悪の基準は、そのとき、そのケース、その年齢、その人 で違ってくることを教えること。
絶対悪とか、絶対善という価値観は、戦争しか生まない。
同じ事を言うのでも、人格者がいれば、善になる。非人格者がいえば、悪になる。
人格はCOPYされる
つまり、上司の人格は、部下を見ればわかるのである。
親の人格は、子供を見ればわかるのである。
指揮とは、訓令 号令 命令 の3種類がある。
訓令とは、目的である。
号令とは、かけごえである。
命令とは行動の基準を示すものである。
訓令 − 大阪に12時に着くように、手配せよ。
命令 − 大阪に12時に着くように、新幹線の切符を手配せよ。
号令 − 大阪に12時につくように、午前9時の品川発の「のぞみ」を手配せよ。
統帥とは、人格的に民心を統一すること。この人のためならという情熱をわき上がらせるもの。
統帥のためには、父親的な愛 母親的な愛 の両方が必要である。
そして、その統帥の任務を負う人の仕事は、自分の尊厳を高めることだけである。
くれぐれも、尊厳に傷をつけるような真似をしてはいけない。
過去に傷のある人から、名誉をもらっても、うれしくないからである。
つまり、心理工作的なコントロールが統御である。
いっぽうで、指揮とは、エネルギーを合理的に活用する技術である。
戦勝は、その中心人格が勝利を信じることにはじまる。
作戦は、常に敵にたいし主動の立場に立ちて動作の自由を得ることにある。
一度受動の地位に陥ると終始敵の動作に追随し、ゆえに失敗する。
日露戦争は予防主義
ロシアの南下の野望を打ち砕くという明確な目標があった。
ロシアをやっつけることが目標ではなかった。
事実、日本は一度もロシアの領土に侵入していない。
それどころか、レーニン・スターリンに金をまき、ロシア革命に火をつけたのが明石大佐である。
このストライキのおかげで日本は勝てた。
いっぽうで、シナ事変は目標があいまいであった。
武力で勝とうとしたところが問題であった。
武田信玄の甲州法度は、徳川家に伝わり、住友家に伝わっている。
そのなかに、統率=硬 + 軟 という記載がある。
硬とは、規律である。
軟とは、利害の一致である。
つまり、原始的欲望の肯定にたって、大衆を指導しないといけない。
一歩先を示すのはいいが、二歩先は理解不能なので示してはいけない。
<当面の目標>と<究極目標>は異なる。
部下への見方は、長所の発見を80%、短所の発見は20%
短所は直らないモノであるから、長所を短所で埋める環境をつくるのがリーダーの仕事。
戦いの戦法は、自ら闘いの間に、発見したものだけが価値がある。
つまり、知的理解の範囲のものには、価値がない。
知性が自殺しない限り、本当の戦法は見えてこない。
本当の戦法は、同じことを何度も繰り返し、自分の体に染みついた法則から生み出すものである。
自分の体に染みつくものは、己を知らないと、分析できない。
戦(いくさ)とは、もともと 生栄 と書いた。
つまり、己のなかに、変化を求めるものは栄えるというのが語源である。
「窮すれば変ず」つまり自分を追い込むものは、やむなく変化する。
どうしよう どうしようという悩みは、己のなかに変化を作り出せない。
闘戦経(最古の兵法)
体をえて、用をえるものは、成る
(基本をえて、実行するものは成る)
用をえて、体を得るものは、変ず
(実行をして、基本を学ぶものは変わる)
剛を先にして、兵を学ぶものは、勝主なり
(実践をして、理論を学ぶものは勝つ)
兵を学んで、剛を志すものは敗将
(理論を先に学んで、勝とうとするものは負ける)
組織は経営目標を達成する手段
構造美学的な組織ではだいたいうまくいかない。間に合う組織であればそれで良い。
理想の形態組織を求めると、もし形態ができあがったとしてもその時点で進歩は停止する。
理想というのは、一時的なものであり、継続性はない。
楠木正成の言葉を引用しよう。
我 全しと思うことは、全ならざるときなり。
我 不全を知りて 全たらんと努力する姿こそ、全なり。
権限と責任の関係
職務権限の明確化は、責任の明確化にはならない。かえって混乱を実際には招く。
野球で、あがったボールをだれがとるのか?は、とれるほうがとる。というのがルールである。
明確に、守備範囲が線引きされているわけではない。
自分が、やれると思ったら、自分で責任をおってやるほうが良い。
職能を重点に組織化するとどうなるか?
皆、自分の専門分野の習得だけに懸命になる。
→視野がせまくなり、経営的な感覚は失せてしまう。
→会社意識の欠如となり、人間不在の管理となる。
会社に対し、愛着がわかなくなる。
→経営に貢献しない専門バカが生まれる。
*なんのための、専門知識なのか? 会社が発展するための専門知識であるはず。
子供の成長する姿を観察してみよう。
バランスを破ることから、成長がスタートするではないか。
小学校の3年生くらいでは、食べたものが全て横幅の増加になるようで太る。
しかし、6年生くらいから、今度は、縦に伸びる。
体重と身長がバランス良く成長するのではない。
バランスを破って、成長するのである。
役に立つ合理性
経験のなかから見つけた合理性は役にたつ。
理屈のなかから見つけた合理性は役にたたない。
リーダーの罪
1.タイミングを失う
2.部下を不安がらせる
3.部下の時間を浪費する
4.よい部下であることを経験しないでリーダーになる。
5.自分の管理ができないリーダー
部下の管理は、自分の管理の応用である
リーダーのために鬼10訓
1.仕事は自分でつくれ
2.仕事は先手でせめろ
3.大きな仕事に取り組め
4.難しい仕事をねらえ
5.取り組んだら手放すな
6.周囲をひきづりまわせ
7.計画をもて(中期と長期)
8.気合いをもて
9.頭は常に全回転、一部のスキも与えるな
10.摩擦は進歩の母
リーダーとトップは同じ心であれ
命令の有無にかかわらず、トップの立場にたって判断せよ。
命令しなければ動かない部下は、幹部ではない。
支配と被支配という関係で支配する側の立場にたつために、相手を利用するという価値観で歴史をみると
イギリスは過去何をしたか?
インドを植民地化 シンガポールを植民地化
フランスは過去何をしたか?
ベトナム・インドシナを 植民地化
ロシアは過去何をしたか?
モンゴル・満州・中国への侵出
アメリカは過去何をしたか?
ハワイ・グアム・フィリピン・台湾・沖縄の植民地化
封建的社会
西洋列国の中世は封建的社会だったが、これは生まれた瞬間に一生が決定されるという制度である。
地位も財産もなにもかもが、生まれた瞬間に決まってしまう。
つまり、支配者層と、被支配者層が、完全に分離しているシステムである。
この人権を無視された被支配層の恨みから、西洋の民主主義は生まれてきた。
社会主義の計画経済も同じ被支配層の恨みから生まれてきた。
根底にあるのは、国よりも自分達の生活のほうが大切という思想です。
つまり、人権を重視するが、国家権を重視しない思想が根底にはみえかくれする。
こうやってみてくると、人権を重視する国家というのは、
人権を重視しなければ人権を無視した国になっていく可能性が大きいから、そういう憲法を制定しているといえる。
といえないか?
モーゼの十戒も、そうである。なんじ人を殺す事なかれ!当たり前のことをなんで、聖書に書かないといけないのか?
日本人なら、宗教など信じなくても、そんなことは生まれながらに知っているではないか。
感情と感情のむすびつきをもって尊しとなし、いがみあうことをしないことを宗とせよ。
という教えは、心の構造を示してします。
心 = 仰心(情の理) + 解心(道の理)
つまり、感情で信じること + 理屈で信じること の2面があるといっているわけです。
人には、それぞれブループがあって、達するもの少なり とあるように
周囲の雰囲気で動く人が多数、我 今何をすべきか?を達しているものは、少ない。ゆえに、上和らぎ 下睦て 事を論えば 事理自らに 通ひ 何事かならざむ。
つまり、上の人の感情を一致させ、理屈の上で納得させれば、事は為す ということです。
和 とは 道理 + 情理 の統合体であることを示しています。
そして、道理とは、異なりを認め合うことです。
情理とは、かたよりなき姿のことです。
事を為すのは人にあり 事の成るは天にあり。
事を為していくのは、誠意と努力と人事であり必然ですが、事が成るかどうかは、天理による偶然性である。
つまり、どんなにグループが一生懸命になってやったとしても、事を為すことはできるが
事を成ることは理にあうかどうか?という偶然の要素があるということです。
非理法権天の法則
非は、理に負ける。(情は理論に負ける)
理は、法に負ける。(理論があっていても法には負ける)
法は、権に負ける。(法は、権力者によって自由に解釈できる)
権は、天に負ける。(権力者の審判は天にまかせよ)
原動力とは、なにか(家族・組織・社会・国家・世界・人類)を慕う心情からスタートする。
外的要因が行動の原動力になっている人は、真の原動力ではない。たとえば
・今日は○○の日だから、これをしないといけない。
・命令だから、これをしないといけない。
・ルールだから、これをしないといけない。
・仕事だから、これをしないといけない。
こういった心情では、失敗するし、偽物しかつくれない。習慣化されたものは死亡への道である。
内的要因が行動の原動力になっている人は、真の原動力である。たとえば
・なになにしたいから
・うれしいから
・良くなりたいから
こういった心情では、過去がない、今だけである。だから、成功する。